「自然は良い影響をもたらす」という実感は、多くの人たちの中で共有されているかも知れませんが、根拠は曖昧です。
なくても平気なものか、あった方がよいものか、なくてはならないものか、自然というものを基礎づけることなく、その価値や効果を論じることはできないはずです。
喪失前にその価値を定説化することができない、というのが現状のように思えます。望んでも手に入らないことが確定して、やっと価値が明確になるようです。このことは本来、地球上の動物の中で人類だけが持っている想像力という能力を使いこなせていない証左といえます。
高層ビルの職場で一日を過ごし、タワーマンションで眠っても、適応力の高い私たち人間は特に問題を感じません。むしろ100年の年月をかけて、こうした生活に適応していったのかもしれません。この生活環境で、人間の欲望と安心と快適さは満たされます。
たとえば宇宙ステーションで暮らすことが当たり前となっても、人類はそこに適応するでしょう。なにも問題を感じない人にとっては、植えられた人工の樹々と花壇の中の花の中で、人工の芝生の上で過ごすだけで十分な癒しを得られるかもしれません。
私たちは生きる場所の議論ではなく、眠る場所の議論をしがちです。生きる環境の議論ではなく、安心して快適に眠ることを議論の前提とします。この価値観に囚われながら、自分の人生の窮屈さを嘆くことは論理的な矛盾です。自己防衛が目的化された消極的なものを求めた結果、消極的な人生しか想像することができず、作為に搾取されながらの妥協が余儀なくされるとしても、それが人間の生きる流儀になるのは、当然の帰結といえます。
私たち自身がこの選択を行うことは、そのひとのこれまでの唯一つの人生を反映した重要な決断であり、他人が口出しすべきことではありません。それでも大きな問題があるのは、ここに異議を唱えても、それ以外の選択肢を見出せない環境的な課題に苦しめられる場合です。
「私の人生はそれでいい、ただこの子には自分で自分の未来を描けるように、選択肢を広げてほしい」という願い、つまり人類の発展の礎と呼べる教育的な価値において問題が問題として浮かび上がってきます。
人類に与えられた能力を発揮し、想像力を駆使しないと、自分で自分の道を探すことはできません。私たちの教育実践は、想像を超えて実践に進み、自然は教育にとって、なくても平気なものでも、あったほうが良いものでもなく、なくてはならないものとして明確になっています。そこに成長の萌芽が象徴されているからです。
自然を定義することさえ難しく、本質的に言語を用いて説明するのに不向きな価値観です。この自然の教育的な価値を外部に発信することができずに、内輪の満足で終わってしまうことは、社会的責任の放置であり容認できるものではありません。まずは自然を基礎づけることによって、こうした現状を打破する出発点を築く必要があります。そこから一つずつ論点を明確にしていく作業を行う必要を感じています。
