『自然について』Q&A

『自然について』(原理編)に関して、言葉足らずになるところを補足しています。

Q 「ひとになる」という表現には、多様な人間像をひとくくりにする暴力性や偏見がないか?

A 人間の理性を尊重し、尊厳を重要視する精神主義の考え方は、ひとつ間違うと大きな誤解に繋がります。知的および身体的ハンディキャップや精神病疾患がある場合など、ひとの条件を満たしていないという選別主義に陥る可能性があるからです。
人間には両義的に動物的特性もあり、それは生命維持のためにも重要な役割を果たします。
矛盾を恐れない両義的な視点とは、このような問題に片輪からの視点で片輪を追求するのではなく、どちらも合わさってひとつの重なりとなる、二重性の思考の必要性を説いています。
ゼロサムの論争は、周囲に考えるきっかけを与える効果がありますが、教育・人の育ちを考える点では、論争の勝敗で普遍的な価値に近づけるわけではありません。
私はインクルーシヴ教育の拡大には、もっと可能性が秘められていると思います。
「できるはずのことができなくなった」という、欲張った成長観が現実的な可能性を狭めて考えるように制限してしまいます。この狭い現実観こそが、誰かを取り残す教育の原因となっています。
ハンディキャップ自体が思うよりもずっと個性的で、一概に議題にできるようなもんもではありません。一人一人の様子を観察して、できる限りの手伝いをする教育行為には、何も違いはない、と思うのが私の基本的な考え方です。


Q 自然(ピュシス)には「万物」という意味もあると聞いたことがあります。

A 一即多、多即一の両義性を考えた場合、万物(パンタ)は多を示しているのだと思います。多が静的で動かないものであれば、一方の極の頂点として捉えることができます。もし両義的でなく、どちらかの極から離れた程度の差の問題であれば、平面的な位置づけの問題にしかなり得ません。一即多、多即一とは、一から多への移動の過程ではなく、「一即多」即「多即一」の矛盾した関係性が成り立っている状態です。万物でありながら個物である矛盾した視野を指示しています。


Q 理想と現実について述べているが、もっと現実の状況に即した思考が必要ではないか

 

A 学力の向上や、授業などのカリキュラム以外の学びにも、大きな役割があります。学力低下に関する批判があっても、同時に起きていることは不登校の増加など、より深刻です。たとえば30台に1台は落ちてしまう橋を、あなたは家族を乗せて通過するでしょうか? 日本全国のあちらこちらにそのような危険な橋が張り巡らされている状況で、車の性能を云々してもはじまりません。
現実的に公教育をまるごと交換することは難しいのは間違いありません。それでもセイフティーネットの確保であれば、もっと打てる手があるはずです。
具体的に私はホームスクーリングの普及と、その公正な社会認知を求めています。


Q AIによって、日本の教育環境は大きく変わっていくと思われます。いまどき自然を持ち出すのは、時代に逆行しているのではないでしょうか?


A AIに職が奪われる、という恐れがよく報じられますが、もっと深刻なのは、AIの公正さを誰もが信じてしまうことです。本書でも触れている通り、善悪の価値観は判断が難しく、正しい見解を示すことが不可能なものです。また多様化の時代において、善と悪も相対的に変化していくと思われます。

こうした予想をするために自然が必要なのです。AIの公正さを信じるとき、人間の不正さ、不完全さが明確になります。AIには善いも悪いもありませんが、私たち人間が創り出す「裁定者」が恐ろしいのです。
昔のSFには、人を操るマザーコンピューターなどの話がよく登場しました。マザーコンピューターが頭脳を活かして、策略を張り巡らし人間を支配しているように思っていましたが、おそらく違うことが今になってわかります。人間が想像力を使って、不安を埋めてしまうのです。
機械に依存してしまう条件は、1)機械の信頼性が社会運用に必要な充分な性能を持つこと。2)その公正さに説得力があり、誰もが認めるものとなること。3)利便性が高いのに運用コストが低く、普及させやすいこと。などがあげられます。上記を鑑みるとAIは、なによりも行政サービスにおいて、活躍の場が広がることが想像できます。窓口で待たされる人間の苛立ちを入力しておく必要があります。