里山とともに生きる

NPO法人 環境教育ネットワークたねのもり 代表理事 柴山 利幸

全国各地の里山で、同じような問題を抱えているのを耳にします。
①世代交代の難しさ
②参加者の意見の食い違い
③周辺の理解のなさ

①の世代交代の難しさは、高齢化とともにずっと言われ続けている課題ですが、明確な解決方法がなかなかありません。技術継承が進まない背景に、世代間の考え方の違いがあると思います。
明確な継承すべき文化形態があればよいのですが、里山の歴史はそれほど古くなく、未だ混迷しています。

まずは何のために里山を守るのか根本理念は不在です。
全国の雑木林の管理をしている方々とお会いすると、素晴らしい理念を教えてくださいます。
そこで②の問題とリンクするのですが、里山に関わる動機に大きく二つの選択肢があることに気が付きます。

・環境をよくするために、私たちがやらなくてはならない(さもないと周りに迷惑をかける)
・豊かな自然を身近に残すために、私たちが最後の砦にならなくてはならない

この選択肢から悲観的に現状を考えて、せっかくの理念が活かすことが出来ない閉塞感を持ってしまいます。

一方で継承される側は、「人を集めるためにはイベントだ、マルシェだ、SNSや動画配信だ、大切なのはブランディング」のような考え方をします。自然との付き合い方が、サービス資源を目当てとしており、継承側のこれまでの経緯と違い過ぎています。

里山は儲かりません。グランピングだ、キャンプ場だ、アクティビティだ、として資本を投入して回すことはあっても、儲けることを考えるのであれば、もっと生産的なものに目を向けた方がずっと効率的です。
枝やドングリを販売するところから、高額なアクティビティまで関わってきましたが、現在の里山の秘めた資源は、お金に換算することで元が取れるような代物ではありません。
基本は自分たちの楽しみ、暮らしの豊かさのためにしかならないのです。

気が付けば、意見がばらばらな参加者が、周辺への迷惑を回避するために働かされるけれど、仲間との集いは楽しいし、責任感もあるから続けている、という状況が続きます。きっとこれからも続きます。

何のために何をするのか、をもっと話し合うべきだったのですが、すでに多様な価値観はまとめるというよりも、隣の人を許容するので精一杯という感じで、棲み分けて核心には触れないようにしているように思えます。
こうした現状を打破したい、というのが私たちNPOたねのもりの実践です。

私たちがずっと一貫して提唱しているのは、生活と密着した雑木林は、教育的な役割で活用するのが、もっとも効果の高い活用方法である、という信念です。
この信念の難しさは、二重の意味での障害を持っています。

・教育の価値が浸透していない
・自然環境に教育価値があることを考えられない

この解決のためには、思想的な基礎づけと、教育を根本的に考え直す必要性があります。
何のために何をするのか、教育利用の提案と結びつけることは、それほど突飛な視点ではなく、近い将来間違いなく必要とされる概念です。

教育環境の行き詰まりと、その根本原因の反省と、参加する人たちが楽しめるやりがいとを結び付けていくことが世代間の共有の価値になります。

私たちの実践から、自然の教育効果の価値を拡げていくことが、ノイホーフ事業の里山保全の目的です。


里山とは何か

「里山」という言葉を現代に蘇らせたのは、森林生態学者の四手井綱英という人物で、1960年代前半のことです。
文献によると1759年(宝暦9年)寺町平右衛門が記した『木曽山雑話』の中に「村里家居近き山を指して里山と申し候」とあります。

この木曽の山で古の薪炭林として実用していた寺町の言う里山と、戦後、化学肥料と化石燃料に頼り実用の役割がなくなりつつある四手井の里山が大きく違うことは想像に難くないでしょう。

現代では四手井のいう実用的でない里山が前提条件です。
ここにリラックス効果を求めて、市民の憩いの場としての役割、という建前を無理やり付加することが公園と里山との違いを分かりにくくする源があります。

もともと日本の国土の豊かさがもたらした一次林が、当時は身近であったことを押さえておきます。次に薪炭林として、生活のインフラのために人が手を入れたのが二次林です。
現在の里山は、自然環境の保全を目的に、実用の目的なしに再生された三次林といえます。

三次林は、目的が明確でないために公園と同じように管理されるか、保護のための保護という混迷した目的を掲げることしかできないのが現状です。
三次林には、新たな里山とは何か? に応える新たな価値づけが必要です。
私たちは、人が健全に生きていくために必要なものという確信を元にノイホーフ事業を実践します。
その話はおいおい続けていくうちに触れます。

                           参考:東京大学出版会『里山の環境学』


森林美学

「なぜ私は、結局、最も好んで自然と交わるのか。それは、自然は常に正しく、誤りはもっぱら私の側にあるからである。自然に順応することができれば、事はすべて自ずからにして成るのである」
ドイツ古典主義からロマン主義へ転じる大きな役割を果たした、詩人ゲーテの言葉です。

この理念は、新島善直と村山醸造の1918年の著書『森林美学』に大きな影響を与えています。
新島と村山による『森林美学』は、先駆けてドイツのザーリッシュが確立した「森林美学」にも影響を受けていますが、ザーリッシュの美と功利の混合を批判的に継承する内容となっています。
新島と村山の『森林美学』は、芸術論的に「創作、鑑賞、解釈」の違いを明確にし、自然美の鑑賞と林業技術を分けたところに独創性があります。

新島と村山の『森林美学」では、自然の美が普遍的な根本の美的価値であることが前提であり、これを基にして、実現のための方法論が選ばれる、という関係性の秩序を重視し、ザーリッシュの目的と手段の混同を是正しています。

現在の里山では、林産を目的とすることもあるでしょうが、その際に自然美と一緒に議論される機会が多いとは言えないと思われます。そもそも「自然美とは何か」に、当時注目を集めていたヴントの心理学や美学を用いて、普遍的な自然美を答えようとしていた新島と村山の先見性は、現在でも重要な役割を果たすと思われます。

特に林産による収益を目的とせず、心の潤いを取り戻す寛ぎ効果や、落ち着きが必要な教育効果を考えると、里山の自然美は重要な位置づけとなるはずです。

新島と村山の『森林美学」の最大の特徴は、風景の要素として森林美を重視し、原生林の重要性、景観としての森林の配置、天然林の美を取り上げ、多様な美的価値を論じたことです。
当然、粗暴な択伐林への否定があり、実践的な課題に美学的に取り組む体系を成しています。

新島と村山は「森林美は誰にとっても普遍的な美である」としています。
芸術論的に、もしくは美学的に考えた自然美の可能性に言及し続けます。
そこには多様性がありながら統一があり、統一がありながら多様である矛盾が存在しています。

里山に関わるすべてのひとが、美学的な原理を学ぶ必要はないと思います。
ノイホーフ事業では、こうした自然美の可能性を損なう議論を、減らすための仕組みづくりを重要視します。
                             参考:海青社『森への働きかけ』